休暇中の社長に、なぜ見積りの質問が届くのか
社長が1日休んだだけで、「この値引きは大丈夫ですか」「先月の約束はどうなっていますか」「誰に確認すれば支払えますか」と連絡が続く。これは小さな会社を想定した仮の場面ですが、思い当たる経営者はいるでしょう。社員が仕事をしていないわけではありません。仕事を進めるための情報や判断する権限が、社長のところに残っているのです。
では、マニュアルを作れば解決するのでしょうか。公開されているGitLabと良品計画の仕組みを見ると、もう少し具体的な答えが見えてきます。「誰が決めるか」と「どう進めるか」を会社の中で共有し、実際の仕事に合わせて更新する。この2つを分けて考えると、社長が手放せる仕事が見つけやすくなります。
GitLabは「誰が最後に決めるか」を書いている
ソフトウェア開発を支援するGitLabは、会社の仕事の進め方をハンドブックで公開しています。その中の「Directly Responsible Individuals」では、プロジェクトや仕事ごとにDRIと呼ぶ責任者を置き、その担当領域の最終判断を担わせる考え方を説明しています。単に作業を割り振る担当表ではなく、判断する人を明確にする仕組みです。
公開されている具体例では、新機能の優先順位はプロダクトマネージャー、開発して届ける部分はエンジニアリングマネージャーがDRIを担います。同じ新機能でも、「何を先に作るか」と「どう完成させるか」を分けているわけです。関係者への相談も求めており、大きな財務上の影響や事業リスクを伴う場合などには、別の承認者や意思決定者が必要になるとしています。
この例から小さな会社が学べるのは、肩書を増やすことより、判断の境界を決めることです。例えば見積りを営業担当に任せても、価格、納期、追加対応のすべてを社長に確認するなら、担当者は書類を作っているだけになってしまいます。「この条件の範囲なら決めてよい」「この例外は相談する」まで渡して、初めて仕事を任せたことになります。
もう1つ参考になるのが、同社の「handbook-first」という文書化の順序です。GitLabは、まず解決方法を文書に書き、その後でSlackやメールで知らせると説明しています。会話の後に誰かが記録してくれることを期待せず、皆が参照する情報を先に更新するやり方です。
小さな会社なら、変更した料金や対応方針をチャットで伝える際に、最新版の料金表や手順へのリンクも付けるところから応用できます。「社長が昨日どこかで言っていた」を探す代わりに、決まった場所を見れば分かる状態にする。機密情報や顧客情報まで社外公開する必要はなく、社内で必要な人が参照できることが出発点です。
良品計画は、現場の改善をMUJIGRAMへ戻している
無印良品を展開する良品計画は、「MUJI REPORT 2025」の個店経営の説明で、店舗業務マニュアル「MUJIGRAM」の役割を紹介しています。公開資料によると、店舗からの改善提案などを通じて、シフトや日々の作業予定の作成、食品の賞味期限確認といった業務を改善し、新しいやり方をMUJIGRAMに反映して全店への定着を図っています。
日々の店舗点検に使う基準書や、人員配置を考えるための様式も整備しています。一方で、店舗スタッフが自ら考えて行動することも重視し、店長会議で店舗の課題や好事例を共有しています。公開されているのはこうした運用の説明で、MUJIGRAMの全文を誰でも読めるという意味ではありません。
ここから読み取れるのは、標準化と現場の工夫を両立させようとする設計です。ある担当者が便利な方法を思いついても、その人だけが使っていれば、異動や退職とともに失われかねません。改善を共通の手順へ戻せば、次に担当する人も使えます。マニュアルは社長の指示を保存するだけでなく、現場で学んだことを会社に残す場所にもなるのです。
もちろん、この仕組みだけで良品計画の業績を説明することはできません。GitLabについても同様です。参考にするのは、有名企業の成功をそのまま再現できるという話ではなく、仕事と判断を個人の記憶から組織へ移すために公開されている具体的な工夫です。
最初に作るのは、厚い冊子より1枚の仕事の表
自社に取り入れるなら、まず社長への問い合わせが多い仕事を1つ選びます。見積り、請求、顧客対応など、繰り返し発生する仕事が取り組みやすいでしょう。次は小さな会社向けの仮例です。担当者の人数や金額基準は、会社の規模とリスクに合わせて決めます。
| 決めること | 見積りを任せる場合の仮例 | 決めないと起きること |
|---|---|---|
| 参照する情報 | 最新版の料金表、原価、標準の納期を同じ場所に置く | 古い価格や社長の記憶に頼る |
| 判断できる範囲 | 標準条件の見積りは担当者が決め、採算や契約条件の例外は責任者へ相談 | 担当者が毎回承認を待つ |
| 残す記録 | 提示額、変更理由、判断者、顧客との合意を案件ごとに残す | 次の担当者が約束を追えない |
| 見直す人と時期 | 担当責任者が定期的に例外を確認し、繰り返すものは基準を更新 | 同じ質問が何度も社長へ戻る |
大切なのは、作った表を実際の案件で使うことです。担当者に任せた後、ルール内の判断まで社長が毎回ひっくり返すと、次からは確認待ちになります。想定外の問題があれば、どの情報や基準が足りなかったのかを一緒に直します。任せる側にも、担当者が判断できる条件を整える仕事があります。
一方で、支払いのように誤りや不正を見落としたくない仕事では、準備する人と確認する人を分けるなどの工夫も必要です。何でも1人に任せればよいという話ではありません。受注、納品、請求、入金と記帳をつなぐ考え方は、「経理部のつくり方」でも説明しています。
IPOでもM&Aでも、仕組みが使われた証拠が残る
東証のグロース市場の上場審査基準は、規模や成熟度に応じた内部管理体制の整備と、適切に機能していることを求めています。仕事の記録は、その体制が日常的に使われているかを説明する材料になります。立派な規程集を作ることと、担当者が迷わず仕事を進められることは、分けて確かめる必要があります。
M&Aを考えるときも、社長の個人メールにしか顧客との約束がなく、他の人が契約や対応履歴を追えない状態では、引継ぎ後の運営を説明しにくくなります。資料を会社で管理し、顧客対応を担当者と一緒に進め、日常の連絡先も少しずつ移していく。買い手には、誰がどの仕事を続けられるかを具体的に示します。
ただし、経産省の「スタートアップM&Aガイダンス」は、経営陣や重要人材の継続関与が買収価値の前提になる場合も扱っています。日常業務を引き継げても、創業者の技術や顧客との関係が引き続き必要なことはあります。売却後の役割や関与期間は別に話し合うもので、仕組みを整えれば売却当日に退任できるわけではありません。
1週間、社長への質問を記録してみる
改善の入口として、例えば1週間、社長に届いた質問を記録してみます。「情報が見つからない」「決める権限がない」「判断に必要な技能が足りない」に分ければ、対処も変わります。資料を置くべきなのか、権限を渡すべきなのか、一緒に練習すべきなのかが見えてきます。
その後、緊急時の相談先を残したうえで、決めた範囲を担当者に任せます。問い合わせが減ったかだけでなく、返答の遅れや請求漏れが増えていないかも確認します。社長の代わりになる万能な1人を探す前に、社長でなくても判断できる仕事を1つずつ増やす。その積み重ねが、創業者が新しい仕事に向かう時間と、次の経営者へ渡せる会社の土台をつくります。
本稿は2026年9月24日時点の法令に基づく一般的な解説です。実行の前に必ず個別にご相談ください。
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